実況中継

狂った都会の様を実況中継

判断基準

人生の目的を「楽しむこと」にあるとするか、「何かを達成すること」にあるとするかで大きく判断基準が変わってくる。

 

間違いなく、そのプロセスを楽しむことに意識を向けすぎると、今楽しいと思うこと、目先のことに意識が向かいやすくなる。

なぜならばそのほうが「今楽しい」からだ。しかも、将来の楽しさを特段変えるものでもないのならば、何かを毀損しているということもない。

 

こうして目の前の楽しみに埋もれていくことになり、何かきちんとしたものを作り上げることはなかなか叶わない。

 

一方で、何かまともな作品を仕上げようと思えば、少なくとも多くの「楽しいこと」を捨てていく必要がある。

これが過剰になると、目的のためだけに生きているような状態になり、着実にQOLが落ちていく。その目的が絶対に揺るがないほど強固なものでなければ、この状態はあまりにも酷で、その迷いが却って目的達成を遠ざけることになる。

 

安易な楽しい、は結果が安定しているからこそ、毎日のように浸かっていると抜けられないぬるま湯として自分をふやけさせるから、ある程度の制限が必要になる。

ではその「ある程度の制限とは」どれくらいなのか?

 

並外れた結果を出すには、自分自身の中に一種のカルトが必要で、そのカルトは快楽基準の変更以外に生まれない。

したがって、優雅な食事、安易なセックス、ゲームや漫画などの手軽な娯楽は、そのカルトを作るにあたっては確実に弊害となる。

 

意図的に、「仕事がもっとも快楽である」という状態を作り出さなければならない。

 

そして、この2年ほど何かをやることに苦しんできたのは、既存の都会カルトをかなりの度合いで脱洗脳してしまい、かつ何かを自主的に洗脳することにものすごく強い抵抗を覚え、できる限り内面の自然な声だけを聞くように心がけていたからだが、すると残ったものはあまりに社会性・生産性を欠く動物に近い自分だった。

それはそれでもちろんいいのだが、社会で生きづらい部分が非常に多いため、本質は変えず表面だけ適応させてみたのがこの数ヶ月。

 

が、表面上だけ繕って見ても自分自身で信じた基準がないため、内面的快楽基準は変更されておらず、それゆえに難易度の高いものは実行できない(楽しくないから)という典型的なダメパターンになっていた。

 

そう考えると、やはり会社が時間と場所を設定してある種の軟禁状態に近づけるのは、何かを生産する方法としてはものすごく適しているんだな。

そこで快楽基準の変更ができなければ、人間ずっと自堕落な生活を続けることになるだろう。そして今やそれを可能にするテクノロジーが無数にある。

 

ストイックであれ。

そしてそのための方法は実はものすごく簡単。

ただ特定の目的だけを考えるマシーンになれ。

その経験はなんどもあるはずだ。